
メガバンクからの転職
多様な業種・地域に通じる仕事がしたいと金融業界を志し、23歳でメガバンクに入行。バブル崩壊や阪神・淡路大震災などが立て続けに発生した時期だったため、配属先の支店での仕事は、回収業務からのスタートだった。その後、本部に転じてからは、デリバティブや債権流動化商品の企画を担当。他行との統合企画にも携わった。生保会社への転職は、学生時代に所属していた弁論部の仲間を通じてスカウトされたことがきっかけだった。30歳を目前に、新たなステップを踏み出したいと考えていた矢先のことで、ちょうど大きな仕事が一段落したタイミングでもあった。生保への転身を決めた当時の気持ちについて同氏は「バブル崩壊後、備えを怠ったばかりに苦境に陥る人をたくさん見た。人の暮らしは、社会保障と自己保障がバランス良く維持されてこそ安定する。現在は社会保障が主軸で、自己保障はその補完と考えられているが、自己保障を主軸にしない限り、高齢化の進む日本の経済は破綻する。その自己保障の最たるものが保険なのだとおぼろげながら感じていた」と振り返る。
目指すのは「自己保障を主軸とする社会の実現」
生保営業に転身後、数年間にわたる苦しい時代を経て、同氏は企業の従業員の福利厚生制度を経営者と共に考えるというアプローチに辿り着いた。実際その手法は高業績につながったものの、「今回はラッキーだっただけかもしれない」という一抹の不安を感じていたころ、MDRTのTOTアニュアルミーティングでTOTのチェアマンを務めていたマーク・ハナ氏に自身の取引事例とその営業手法を紹介する機会を得た。不安を口にする同氏に対してハナ氏は、同氏の営業手法が米国ではスタンダードなものであると語り「あなたはそのまま進んでいけばいい」と背中を押してくれた。自信が確信に変わった瞬間だった。
その4年後、39歳の時に同氏は所属会社の初代世界チャンピオンとなる。世界2万3000人の頂点に立つという偉業を成し遂げたわけだが、同氏は「ハナ氏に背中を押してもらった時からチャンピオンになれるという手応えは感じていた。チャンピオンになることは目標ではなく、生保業界を変革するという目標を実現するための手段に過ぎなかった」と冷静に語る。生保業界の変革、それは同氏が当初から温めていた「自己保障を主軸とする社会の実現」を意味する。一人では決して実現できないこの夢を実現するためには、「チャンピオン」という称号に備わる強力な「発信力」が必要だと考えたのだ。その発信力を確かなものとするため、同氏は通常の表彰基準の6倍以上の業績を計上したという。
「異業種交流会」と「ご縁結び」
現在では所属する保険会社の法人営業のトレーニングの責任者を務め、要望があれば各地の支店・支社で研修を実施している同氏。そのノウハウはトレーニング用に作り上げた46コマの講座に集約しているというが、中でも同氏が特に強みとしている手法が2つある。
1つ目は、自身が主催する異業種交流会を通じた新規顧客の開拓。同氏は常に規模の異なる会を同時に3~4つ運営している。最も古い会は10年前に立ち上げたもので、3カ月に1度の頻度で開催した。会の運営に欠かせないのが、強力なパートナーの存在だ。同氏の異業種交流会を共に運営するパートナーには、いずれも志を同じくする大手企業の経営者らの名前が並ぶ。参加者にとって有意義な会を運営することで自然と会員が増え、それと同時に見込み客も増える仕組みだ。
2つ目の手法は「見込み客の本業支援」だが、同氏はこの取り組みを「ご縁結び」と表現する。見込み客となった経営者に夢や目標を聞き、その実現のために必要な人物を引き合わせるのだという。その際、仮にいい出会いがあっても、企業としての体制に問題があってはチャンスを逃すことになりかねない。そこで同氏は、より財務的に信頼の得られる体制を整える手段として保険を提案している。同氏の縁結びによって誰もが知る大手企業同士のコラボレーション企画が次々に誕生している。
まとめ
「誇大妄想と笑われるかもしれないが、私は今も昔も厚生労働大臣を目指しているんです」―そう語る髙久氏の目は真剣そのものだ。同じく金融の証券業界では米国の大手金融グループであるゴールドマン・サックスは現在のスティーブン・ムニューシン氏をはじめ、この20年間で財務長官を3人輩出している。同様に、日本においても、生命保険業界において生命保険会社から厚生労働大臣に採りたてられる人材が出ても不思議ではないはずだ、というのが同氏の主張だ。顧客の最も近くにいる営業パーソンが国家事業の意思決定に関わる日を目指し、同氏は仲間と共に世界中の生命保険に関する情報収集に取り組んでいる。生保業界の新たな夜明けに向けて、同氏の挑戦は続く。