
2019年3月9日、フロリダ州Tallahasseeのごく普通の土曜日のことでした。何の前触れもなく私の人生が激変したのです。妻のCourtneyと私は土曜日の夕方5時からのミサ(私たちはカトリックです)に行くことにしていました。妻は子どもをわたしに預けて用事を済ませてから教会に行くということで自分の車で先に出掛けました。ミサの5分前に2人そろって教会の席に着くことができました。その時です。私は急に意識を失いました。気が付くと教会の駐車場にとどまっている救急車に乗せられるところで、神父が私のために祈りをささげていました。救急隊員がERに運ぶ準備をしていました。どうやら私は発作を起こしたそうです。救急隊員は妻が救急車に乗ることを拒みましたが、神父を断ることはできなかったようです。妻は自分の車で病院まで付いてくることになりました。
私の姉のAngelaも同じ街に住んでいて、搬送先の病院に勤めていて、ちょうどその日は夜勤でした。妻は彼女に電話をかけて状況を報告しました。姉は瞬時に医師モードになったそうです。翌日には私を担当するERの医師、神経科医、神経外科医を指名してくれました。病院に到着するとすぐに検査が始まりました。CTスキャンの結果が出ると、医師が思わしくない報告をしてくれました。右前頭葉に大きな塊があり、おそらく腫瘍だと思われるがMRIを撮らないとわからないとのことでした。私は不思議なくらい落ち着いて医師の診断を聞いていました。最初に考えたことは、どうやって解決するか、アクション・プランは?
日曜の早朝にMRIを取り、昼ごろには神経外科医が病室に来ました。そのころには私の両親も病室に駆けつけて、妻のCourtneyと姉のAngelaも同席しました。神経外科医は脳の右前頭葉の塊は腫瘍だと言いました。そして「オプションはいくつかあります。ひとつはこの病院で腫瘍の摘出手術を受ける事。たっぷり麻酔をかけて腫瘍を取り除くが、脳組織に絡まっているので、手術が終わり麻酔が覚めるまでどの程度の後遺症が残るかはわからない。後遺症がない可能性もあるし、左半身がマヒする可能性もある。どの程度の後遺症かは終わってみなければわからない。ふたつ目のオプションはフロリダ州GainesvilleにあるShands病院を紹介して、そこでawake cranitomyという意識のある状態での開頭手術をする方法です。手術中はほとんど意識があるので、手術をしてどこを切るべきか、切ってはいけないかがわかります。たまたま私が研修医としてその新しい手術法を学び、その手術のできる数少ない医師がその病院にいます。既にあなたのMRIをその医師に転送したところ、あなたはこの手術にピッタリの患者だという返事を受け取っています。そちらの手術を希望なさるのでしたら、話はしてありますので明日の朝、病院に電話をして詳細を決めてください」と言いました。
私たちは胸がいっぱいでした。私の祖母は15年前に脳腫瘍で他界していたので脳腫瘍と聞いた瞬間に両親も家族も最悪を予想していました。祖母も腫瘍摘出術を受けましたが、当時は意識のある状態での開頭手術などありませんでした。
水曜には転院し、再度MRIを撮り脳の機能を詳細にマッピングしてもらいましたが、その作業に3時間かかりました。手術は翌週の3月26日と決まり、まるで幽体離脱のような体験でした。手術前の1時間半くらいは術前の準備室で一人横たわっていました。脳外科医が来て、他の外科医に指示を出す様子を私は見ていました。医師(女性)は「あなたはちょっとした変わり種ね」と言いました。それに対する私の最初の反応は、大きな脳外科手術の前に聞くには刺激があり過ぎて、よからぬことが起きるかもしれないと心配になってしまいました。でも彼女の説明によると一般的に脳の言語をつかさどる部位の100%が右側にあるか、100%が左側にあるそうです。しかし、私は60/40の割合なのだそうです。つまり、たぶん数週間は一時的に言葉を失う可能性があり、ほんの少しの可能性としては一生言葉を発せなくなる可能性もあるとのことでした。私の反応は「克服するべきことがあと一つ増えただけだ!」でした。詳細は省略しますが、手術で腫瘍を95%除去できたそうです。そして実際に数週間は言葉が出なかったので、手術後数カ月セラピーに通いました。
腫瘍を摘出した後に、ゲノム情報を分析しました。その結果、私の腫瘍は特定の治療が非常に有効だということが分かったので、その後はその遺伝子変異を攻撃する治療法を受けました。ワイルドでしょ!
手術の一カ月後に医師は治療計画、つまりゲームプランを示してくれました。6週間にわたる放射線治療を受け、6週間の化学療法を受け(幸いなことに過酷な静脈内化学療法ではなく錠剤)、一カ月休んでメンテナンスの化学療法を受けるというサイクルでした。化学療法の錠剤を5日間飲み、23日休むを12回繰り返すことになりました。やっつけてやろうじゃないか!
ということで、まずは4カ月の休暇(治療)に入りました。その期間はいろいろなことを考える時間になりました。そんなに長時間考える時間を与えられたのは人生で初めてでした。自分の生き方について、これからについて、たくさんのことを考え、いくつかの学びを得ました。
まず、アニュアル・ミーティングへの参加は心の準備をさせてくれました。新人の頃参加した大会で学んだことは、自分は最高のクライアントでなければならないということでした。保険のプロやファイナンシャル・アドバイザーは自分の保険を後回しにしていることが多すぎます。私は最悪シナリオも想定していました。父も金融サービス業界で31年の経歴があり、常々最悪に備え、最善を望めと言っていたからです。つまり自分に何かがあっても経済的な問題はないのだから、回復だけに注力すればよいということは大きな安心です。もしも、皆さんの中にご自分のプランニングが不十分な方がいらっしゃるのでしたら、ぜひこの機会に客観的にプランニングをすることを強くお勧めします。
必要であれば助けを求めてください。自分のエゴで後回しにしないでください。自分のことだからこそ自分では決めにくいこともあります。私の体験から言うと、99%の人は頼まれれば手を差し伸べてくれます。フロリダ州の条例では発作を起こした人はその後6カ月間車を運転することはできません。(訳注 アメリカでは死活問題)そのため、妻、両親、兄弟、アシスタントのJulieそして友人たちがその6カ月間私の運転手を務めてくれました。自分でコントロールのできない状況のことを考えてください。放射線治療のために妻と母が6週間もの間、100㎞近くを毎日送り迎えしてくれました。放射線治療が2019年6月の末に終わると次は、仕事に戻らなければいけないと考えました。お客さまとの面談がある日はどうする、ということでアポイントメントのある日は、アシスタントが自宅まで迎えに来てくれて一緒に出社し、オフィスで面談をして、アシスタントに自宅まで送ってもらいました。多くのクライアントがオフィスに来てくださいましたが、近隣のPanama City, Gainesville, Jacksonvilleにいらっしゃる方々はどうするのかが問題でした。しばらく考えた末、クライアントのWelmon Pippinに運転手になってもらえないか頼むことにしました。彼は喜んで引き受けてくれました。自分で運転できなかった数ヶ月間、運転手をしてくれた事への感謝は永遠に忘れません。後で聞いた話ですが、彼もカリフォルニアに住んでいたころがんに罹患したのですが、家族は近くに住んでいなかったそうです。そんな時に放射線治療のために毎日送り迎えしてくれた友人がいたそうです。彼はその恩送りをしてくれたのです。皆さんも勇気をもって助けを求めてください。
それまでの自分の人生はこの困難な時期のための準備だったのだと悟りました。小学校でのサッカー、リトルリーグでの練習、高校・大学を通して没頭したフットボール、保険と金融サービスの仕事の全てが闘病中の自分の糧であり準備だったことを感じました。毎朝5時からのワークアウト、1日おきのエクササイズ、お客さまから受けたたくさんのNO(今もまだ受け続けています)、そしてキャリアの浮き沈みの全てが、命をかけた戦いの前哨戦だったのです。子どもの頃、学校に行きたくないとか、あれこれしたくないとぐずった時に母がよく言っていた言葉があります。「とにかくやりとげなさい」と「今日一日がんばりなさい」今を乗り越えれば何とかなるという言葉です。当時の私はその言葉の意味を十分に把握できるほどの知力はなかったのだと思います。でも、がんと診断されてからの日々はまさに、一日一日を乗り越えることへの注力でした。プロセスを大事にすると、心地悪い状況を受け止めることもできるようになります。
MDRT会員の大部分はコントロール・フリークだと思います。そうでなければ入会できないからです。アドバイザーは何でもコントロールしたがります。引き受け査定のプロセスから、オフィスの受け付けに置く雑誌に至るまで、お客さまのためにすべてのプロセスにこだわりがあるはずです。しかし、人生においては自分の力ではどうにもならないことがあります。例えば、がんと診断されるとか、愛するご家族が亡くなるとか、事故にあうとか・・・自分で決められることは、物事への対応であり、どのように困難に立ち向かうかです。人生では何回ノックダウンされるかではなく(フットボールをしていたころは、数えきれないほどノックダウンされてました)、どうやって立ち上がるかが大事です。立ち上がって、戦い続けますか。診断をくだされたあの日、私にはふたつのオプションがありました。諦めて死を待つか、全力で戦い抜くか。私は戦うことを選びました。妻のため、子どもたちのため、両親のため、兄弟のため、すべての友人のために。これからもすべての方々のための良き見本になれるような生き方をしたいと願っています。最初に診断された日、病院のベッドで私は自分自身と協定を結びました。何があっても最後まで戦うこと、毎日全力を尽くす事です。1日ずつ、一歩ずつ進むことです。
「時は流れる、常に死を覚悟するべし」― Knights of Columbus

Joseph Spinelli III, CLU, LUTCFはフロリダ州の10年間MDRT会員であり、the Knights of Columbus(カトリック教徒のための)のファイナンシャル・アドバイザー。Bridgewater Collegeで経営と経済を専攻しました。21歳の時にInternational Knights of Columbusのルーキー賞を受賞し、11年間Supreme Knight's Club (SKC)会員であり、Knights of ColumbusでMDRT終身資格を獲得した最年少の会員。