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25歳の時、子どもの頃に描いていた全く現実性のない私の夢がかないました。その夢は月面を歩くことでもアカデミー賞を受賞することでもなく、アメリカの全国放送のテレビで39日間飢えをしのぎ海の中で排便することでした。

私は子どものころからテレビ番組Survivorに出て優勝したいと思っていましたが、それはとてつもなく非現実的な夢でした。体育のマラソンの授業ではズルしてやっとBマイナスのタイムが出せる程度の体力、しかも背も低く太っていました。テントの張り方さえ知らず、ましてや住居を自力で建てて食糧を捕獲するなどなおさらです。しかし、番組が大好きだったので、この世界最高のゲームに参加することを夢見ていました。

9歳の時に初めてSurvivorを見てから、木曜の夜にこの番組を見ることが我が家の習慣になりました。オンラインのSurvivorゲームで架空の家族チームを作って遊んでいました。学校から帰ると真っ先にインターネットのチャットルームで見ず知らずの人に投票していました。中学1年生の時に修学旅行で友人のためにサバイバーゲームを主催したこともあります。優勝した2人の友人は泣いて喜んでいました。とても楽しかった思い出です。大学に進学しても両親は私がSurvivorのエピソードについて話すために少なくとも週に一度は電話をしてくることを知っていたほど、Survivorは私の生活の一部になっていました。それでも22歳までは夢であるこの番組に応募する自信がありませんでした。年間何万人もの応募者がいる中で、私のような平凡な人間が番組に出られる可能性など低すぎて応募するに値しないとずっと思っていました。

結局、番組に出演するまでに3年かかり、5本のオーディションビデオを送りましたが、オーディションで選出されてから初めて記録を打ち立てるだけで4年もかかりました。その最初のオーディションビデオがキャスティングの目にとまり、スタッフが私に電話で今回は少し違った企画を考えていると言いました。その時に家族をテーマにしたシリーズのキャスティングをしていたそうです。家族の中で私と一緒に参加したいと思っている人がいないかと聞かれました。この質問で家族がどれだけ自分を愛してくれているかを実感することができます。すぐに家に帰って家族に一緒にオーディションを受けようとお願いし、母と兄が賛同してくれました。

母は外で知人に会うと必ず話しかけ、買い物に行くたびに新しい友達ができるような人でした。人間関係の力を見せることで両親は無意識のうちにSurvivorで優勝する秘訣を私に教えてくれました。ビジネスマンとして成功していた父は、商品の売り込みよりも人間関係の方が大切だと教えてくれました。売り込みは1件の売り上げになるかもしれませんが、人の評判は1000件の売り上げになるからです。人のために正しいことをすれば、自分にも同じようにかえってきます。人は本当に気にかけている人に耳を傾けます。そしてじっくり話を聞けば、その人が何を必要としているかを理解できます。Survivorの歴代勝者でチャレンジ中に友達を作らずに優勝した人は一人もいません。もし他の参加者に嫌われたら信頼されることは難しく、最終投票で票を獲得することはできません。

母と私は2014年にSurvivorに出演する予定でした。当時58歳の母は番組史上3番目の高齢女性だったと思います。それでも母はこの恐ろしく過酷な冒険に出るために必要なすべての健康診断に合格しました。母は毎日運動し、健康的な食事をし、たばこも吸いませんでした。そのわずか数年後、母がステージ4の肺がんと診断された時、私たち家族がどれほどショックだったかを想像できると思います。正直に言うと、私は肺がんについて誤解していることがたくさんありました。母のように健康な人がなる病気だとは思っていませんでした。しかし肺がんは男女ともに死亡率が高く、肺がん以外の上位3つのがん死亡者数の合計よりも肺がんの死亡者数が多いのです。それにも関わらず、他のがんに比べて研究資金は不足しています。肺がんは怖い病気ですが、母は今までの人生で全てをやり切ったかのように笑顔で病気に向き合いました。病気のため、その年に2人でSurvivorに出る夢は諦めました。

2016年に再度、私単独でのSurvivor出演依頼の電話を受けたとき、母の中に迷いはありませんでした。母は私に番組に出てほしいと思っていたため、私は人生で一番恐怖を感じていた時期にSurvivorに参加することを決めました。多くの意味でその意思決定がポイントとなりました。死に直面することは、人生を思い切り大きく大胆に生きることが大切だという理由を教えてくれます。家族が楽しみにできることを必要としていたので、私の出番だと思いました。希望の兆しを示して「私たちが戦う理由、生きる理由はここにあります。このような素晴らしい瞬間のためです」と、私が家族の好きな番組内で伝えることができます。これ以上のことはありません。

ゲームでは常に良い順位にいたわけではありませんが、39日目まで文字通り生き残ることだけに集中しました。両親が私の人生で教えてくれたことを思い出し、それを達成しました。友達を作り、人間関係を重視し、まともで信頼できる人として振る舞うことです。対決型のリアリティ番組を見たことがあれば、参加者の誰かが「友達を作りに来たわけじゃない」と言っているのを聞いたことがあると思います。Survivorや営業、人生においては問題ないのですが、それでは負けることになります。サバイバル中は毎日、より深くよりリアルなつながり、関係性を作るように母が私の背中を押してくれているのを感じました。

人生の中で恐怖に直面したり、挫折を経験したり、悲しい思いをしているのは自分ひとりだと思ってしまいがちです。家から数千マイル離れた地で、世界で最も過酷なゲームの一つに参加しながら人生で一番つらい時期を経験していたSurvivor参加中でさえ、私は一人ではありませんでした。他の出場者Jayも病気の母親がいました。私と同じように、彼は母親に誇りに思ってほしい、彼女の人生をより良くしたいという思いで参加していました。私は今まで参加者に隠してきた母の病状を35日目にJayに打ち明けました。他の出場者はゲーム内ではライバルであり、ある意味相手を蹴落としたいと思っています。Jayはこの情報を不利に使うこともできますが、彼なら私の気持ちを理解してそんなことはしないと信じていました。そして私たち2人の母親への愛は、番組が終わっても続いています。その日はハンモックで共に泣き、次の日の夜に彼が投票で退場することになった後も兄弟のような関係が続きました。

Jayは私が勝てるように投票してくれました。そして、彼は母が亡くなった時に私が最初に電話をかけた人のひとりです。人生最大のチャレンジに一人で立ち向かう必要はありません。立ち直りが早い人によく見られる特徴の一つは、周りから強力なサポートを得られることです。実験社会心理学の学術誌「Journal of Experimental Social Psychology」の研究は、親しい友人と登山している時、山が実際よりも険しく感じないことを示しました。失敗した時に立ち直らせてくれる人、弱った時に元気をくれる人が人生にはいますが、その仲間を見つけられるかは自分次第です。友達や同僚にそういった人がいない場合は、新しい友達を見つけるか、自分がしてほしいと思うように今の友達を尊敬しサポートできているかを確認する時かもしれません。

結局のところ、自分が望むように他の誰かに寄り添っていなければ、他の誰かがあなたに寄り添ってくれることは期待できません。最終的に私はチームの中で仲間を見つけ、本物の強い絆を築いて最終地点までたどり着きました。そして陪審員全員の票を獲得してSurvivorで優勝しました。子どもの頃の究極の夢がかないました。その勝利を家族、特に母と分かち合い、7カ月後のライブ・フィナーレで100万ドルの小切手を観客席にいる母に渡したいと思っていました。しかし、本当の試練はそこから始まりました。フィジーでの撮影が終わった後、急いで家に帰って真っ先に母のところに行きました。ちょうど2日前、私が最後の追放審議会で陪審員に訴えかけていた時、母はまだ家の周りを散歩していました。今までと変わらず力強く、明るく生きていました。帰宅後、1時間ほど母と話をしました。母ははっきりと目を覚ました状態で私の話を聞き、家族全員がその場にいました。母は最初、顎ひげを生やして日焼けし、9キロ痩せた私が本人だと信じられなかったようです。母に何度も愛していると伝えました。そして母の呼吸が速くなり始め、何が起こるかを悟った私はSurvivorで優勝したことを伝えました。数秒後に母は息を引き取りました。

私の人生最大の夢がかなった直後に、人生最大の悪夢が襲ってきました。もしこの話を読んだらあまりにも信じられない話だと思うかもしれません。当時も今でもなお、多くの点で現実的ではありませんでした。母はただ私の帰りを待っていただけではなく、私がいない間も毎日力強く生きていました。それを知ったのは、各エピソードが放送されるたびに私のために撮影してくれた11本のビデオを見たからです。母は今まで見たことがないくらい喜び、元気で笑いに満ちていました。これは私が帰宅する数日前に母が残したボイスメールです。亡くなる数日前のものです。

Susie Klein: あなたの帰りが待ち遠しいわ。私のところに帰ってくる興奮と喜び、情熱、エネルギーで震えているほどよ。だからこの最初のメッセージをすぐに携帯に入れておきたかったの。心から愛しているわ。今日はとても調子がいいのよ。すべて順調でうまくいっている。元気に帰ってくることを願っています。愛しているわ、アダム。

Adam Klein: 物事はうまくいっている。母にとってはいつもそうでした。母はそうやって世界を見ることに決めたのです。当時は知らなかったのですが、母の治療は効果が現れなかったため私の不在間に治療を中止していました。他の治療法も効果がありませんでした。母の容体に何かあったら私を呼び戻すように父に頼んでいたので、父は私に連絡することを考えていました。しかし、母は納得しませんでした。母は自分が病気だと思ったことはなく、私を呼び戻すことは母の楽観的な世界観では納得できなかったのです。父はプロダクションに話をして私が残っている限りゲームにとどまることを決めていましたが、追放された時に備えて審議会ごとにヘリコプターを待機させ、私がすぐに帰れるようにしてくれていました。

そのため、母は私が帰ってこない日は、私がまだ家族皆の夢を追いかけている日だと知っていました。そして家族と対面するエピソードに兄が参加し、その話を持ち帰ってくれたことで母は私が想像していたようにそのエピソードをテレビで見ることはできなかったものの、私と一緒にSurvivorの夢を生きることができました。番組の歴史において他のどの家族よりも、私は母に喜びをもたらそうと思い、それを実現しました。母は私の一番の味方であり、母が幸せだったことを確信していますが、母を失った悲しみは少しも軽くなりません。家族の誰もが経験したことのない最もつらい出来事でしたが、私たちには選択肢がありました。悲嘆で家族を崩壊させるか、悲しみをポジティブなものに変える努力をするかです。私たちはキャンペーンを立ち上げることにしました。肺がんの研究資金を集め、肺がん患者の方が母のように人生を精いっぱい生きることを応援する「Live Like Susie」キャンペーンです。

発足後1年以内に50万ドル以上の資金を集め、世界に母の影響力を広げることができました。

Adam Kleinの人生経験、若い視点からの意見、諦めない力、情熱をもって挑戦を続ける充実した生き方によって多くの人に勇気を与え、これまでの成功の定義に疑問を投げかけています。子どものころから目指していたアメリカの有名なテレビ番組サバイバーの勝者になり、pain痛みをpowerパワーに変えることで肺ガンと闘う方々の賛同者として活躍する一方、スタンフォード大学を卒業後はホームレス用のシェルターを運営管理しています。

Adam Klein
Adam Klein
2020年11月7日

ブイを目指せ: インパクトで不滅の力を

大ヒットテレビ番組のサバイバーで優勝したAdam Kleinは、実力以上の目標を目指すことでポテンシャルを発揮し、成功し、さらにレガシーを残すことも可能だという体験談をシェアします。
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著者

Adam Klein